東京新聞の「世界と日本 大図解シリーズ No.1005」(2011/08/14)は、「シベリア抑留」であった。
ここに、有光健氏の文章ではあるけれども、抑留に関する記述が掲載されているので、原文のまま転載させて頂く。

---------
辛い記憶 家族にも話せず
有光健

 日本の敗戦を目前にした一九四五年八月九日、ソ連軍は旧満州や朝鮮半島北部に侵攻し、支配下に置いた。ソ連の独裁者スターリンは同月二十三日、祖国復興に必要な労働力として、約六十万人もの日本人捕虜の強制連行を命じた。シベリア抑留は戦争終了後に起きたのだ。
 抑留先はシベリアだけではなく、モンゴルや中央アジアなど二千カ所以上の収容所だった。抑留者は厳しいノルマを課せられたうえで森林伐採や鉄道建設、水道敷設、鉱山などの重労働をさせられた。
 寒さと飢えと過酷な労働のいわゆる「シベリア三重苦」で抑留者の約一割に当たる六万人以上が亡くなったとみられるが、正確な犠牲者数は現在も分かっていない。
 収容所内では民主化を求めるグループと旧来の軍隊組織を維持しようとするグループの間でし烈な抗争があった。日本人同士のつるし上げや密告なども繰り返され、帰国後もつらい記憶を家族にすら話さない人が多い。
 シベリア抑留は、捕虜の権利や早期帰国を規定しているジュネーブ条約やポツダム宣言に違反する大規模かつ組織的な拉致事件だった。抑留者は帰国後もソ連の洗脳を受けた「シベリア帰り」として警察からマークされ、就職でも差別された。
 国の謝罪はおろか強制労働に対する賃金もまったく支払われないまま、戦後六十五年の二〇一〇年六月、国会がシベリア抑留問題を放置してきた責任を認め、「シベリア特措法」を成立、即日施行させた。
 平均年齢が八十代後半という約六万五千人の生存者に特別給付金(抑留期間に応じて一人二十五万~百五十万円)が支払われる。金額が少ないとの議論はあるだろうが、戦後初めて国の補償金を生存者が受け取る意味は大きい。
 特措法の定めに従って国は今後、抑留の実態解明や遺骨収集、慰霊、次世代への継承などを進めるが、もっと早く特措法が成立していればと思わずにはいられない。
(前全国抑留者補償協議会事務局長)

抑留者の大部分は日本人捕虜だが、朝鮮人や台湾人、民間人、女性、少年らもいた。
---------