東京裁判のページ管理人のblog

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戦後思想の問題

"東京裁判のページ / 指定暴力団一覧表" の 更新

旬なので更新しました。

東京裁判のページ / 指定暴力団一覧表

前回内容を更新したのは平成11年7月末でしたから、あれから既に12年も経過しているんですね。
そこに書かれている情報も、流石に古くなり過ぎました。

代替わりやそれに伴う名称の変更、代紋の変更、
指定を解除された組織、別の組織の傘下に入った組織、
新たに指定された組織など、色々ありますが、12年の年月は、
やはり長いです。在日の存在も見逃せません。

当時はまだ、アメリカでのwikipediaプロジェクト(2001年(平成13年)~)すら始まっていない時期でして、
現在でも "指定暴力団一覧表" で google検索 しますと上位にリストされることから、
指定暴力団一覧表のページも一定の役割を果たしてきたのではないかと思います。
そしてまた、時代の移り変わりの速さには驚きを禁じ得ません。

そうそう、こんな記事もありましたので、紹介させて頂きます。

【山口組組長 一問一答】(上)全国で暴排条例施行「異様な時代が来た」+(1/5ページ) - MSN産経ニュース

以下、一問一答(上)から。

> 矛盾しているように聞こえるかもしれないし、なかなか信じてもらえないだろうが、俺は暴力団をなくすために山口組を守りたいと考えている。そのことはこれからの行いで世間にご理解を願うしかない。

> しかし、山口組の存在でわれわれの業界の治安が守られているという事実がある。山口組を解散し、80の直系組織が個々の団体になった場合、当然縄張り争いが起き、抗争事件が続発している九州のようになるのは間違いない。今はほとんど抗争事件は起きていないし、ほかの団体とも平和外交に徹してきた。だからこそ、山口組を維持することが俺の責任であり、義務であると思っている。ひとつ加えると、われわれは暴力団といわれている業界のなかではすごく紳士的だ。一般の人よりも長幼の序とか、そういうことは厳しく守られている。ホテルとか公共の場で徒党を組まないとか3人以上で歩かないとか、そういう面でも厳しくし ている。

【山口組組長 一問一答】(下)芸能界との関係「恩恵受けること一つもない」+(1/4ページ) - MSN産経ニュース

以下、一問一答(下)から。

> 山口組は厳しく覚醒剤と不良外国人との接触を禁じている。実際、山口組が、薬物の売買や不良外国人との接触を本当にしているのならば、今以上に治安が悪化し、薬物も蔓延しているはずだろう。ただ、末端の組員の一部不届き者たちが禁止事項を破り、われわれの目を盗んで己の欲望を満たすために任侠道の名を汚していることは紛れもない事実。だから、せめてそういう組員を少なくしないといけないということで麻薬撲滅を標榜している。まず内側から浄化していかないといけないということだ。外部に対して撲滅なんておこがましいことを言っているわけではない。不良外国人たちは今、日本のやくざが行き過ぎだと思える法令、条例が施行されて以降、われわれが自粛している間に東京の池袋や新宿、渋谷、あるいは名古屋、大阪などのたくさんの中核都市に組織拠点をつくり、麻薬、強盗などあらゆる犯罪を行っている。これが今後、民族マフィアと化していったら本当に怖くなるだろう。



シベリア抑留と戦後補償

東京新聞の「世界と日本 大図解シリーズ No.1005」(2011/08/14)は、「シベリア抑留」であった。
ここに、有光健氏の文章ではあるけれども、抑留に関する記述が掲載されているので、原文のまま転載させて頂く。

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辛い記憶 家族にも話せず
有光健

 日本の敗戦を目前にした一九四五年八月九日、ソ連軍は旧満州や朝鮮半島北部に侵攻し、支配下に置いた。ソ連の独裁者スターリンは同月二十三日、祖国復興に必要な労働力として、約六十万人もの日本人捕虜の強制連行を命じた。シベリア抑留は戦争終了後に起きたのだ。
 抑留先はシベリアだけではなく、モンゴルや中央アジアなど二千カ所以上の収容所だった。抑留者は厳しいノルマを課せられたうえで森林伐採や鉄道建設、水道敷設、鉱山などの重労働をさせられた。
 寒さと飢えと過酷な労働のいわゆる「シベリア三重苦」で抑留者の約一割に当たる六万人以上が亡くなったとみられるが、正確な犠牲者数は現在も分かっていない。
 収容所内では民主化を求めるグループと旧来の軍隊組織を維持しようとするグループの間でし烈な抗争があった。日本人同士のつるし上げや密告なども繰り返され、帰国後もつらい記憶を家族にすら話さない人が多い。
 シベリア抑留は、捕虜の権利や早期帰国を規定しているジュネーブ条約やポツダム宣言に違反する大規模かつ組織的な拉致事件だった。抑留者は帰国後もソ連の洗脳を受けた「シベリア帰り」として警察からマークされ、就職でも差別された。
 国の謝罪はおろか強制労働に対する賃金もまったく支払われないまま、戦後六十五年の二〇一〇年六月、国会がシベリア抑留問題を放置してきた責任を認め、「シベリア特措法」を成立、即日施行させた。
 平均年齢が八十代後半という約六万五千人の生存者に特別給付金(抑留期間に応じて一人二十五万~百五十万円)が支払われる。金額が少ないとの議論はあるだろうが、戦後初めて国の補償金を生存者が受け取る意味は大きい。
 特措法の定めに従って国は今後、抑留の実態解明や遺骨収集、慰霊、次世代への継承などを進めるが、もっと早く特措法が成立していればと思わずにはいられない。
(前全国抑留者補償協議会事務局長)

抑留者の大部分は日本人捕虜だが、朝鮮人や台湾人、民間人、女性、少年らもいた。
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「イラク開戦の動機は石油」?

「イラク開戦の動機は石油」=前FRB議長、回顧録で暴露
>  【ワシントン17日時事】18年間にわたって世界経済のかじ取りを担ったグリーンスパン前米連邦準備制度理事会(FRB)議長(81)が17日刊行の回顧録で、2003年春の米軍によるイラク開戦の動機は石油利権だったと暴露し、ブッシュ政権を慌てさせている。
>  米メディアによると、前議長は「イラク戦争はおおむね、石油をめぐるものだった。だが悲しいかな、この誰もが知っている事実を認めることは政治的に不都合なのだ」と断言している。
>  ブッシュ政権は、当時のフセイン政権による大量破壊兵器計画阻止を大義名分に開戦に踏み切ったが、同兵器は存在しなかったことが後に判明。「石油資源確保が真の目的だった」とする見方は根強く語られてきた。
との記事があります。

しかし、
Washington PostのStaff Writer Bob Woodwardによるインタビュー記事 Greenspan: Ouster Of Hussein Crucial For Oil Security を読みますと、
時事通信社の付したタイトルや記事本文は、随分とバイアスのかかった付け方だな、という思いを禁じえません。
※ 興味のある方は是非上記リンク先もご覧下さい。

私たちは湾岸戦争後に行われた、国連の「イラク石油食糧交換プログラム」に関連する不正も忘れてはならないと思います。
その当時も何故かこの問題に関しては、あまり日本国内で話題になることはありませんでした。

新聞やニュースの文言だけに踊らされないよう、物事を正しく見る努力が大切なのだと思いました。

質問Spamer国会に現る

姉歯元一級建築士への証人喚問、質問時間の枠、40分に対して、32分は自民党の議員が質問(発言?!)していた時間。

今では、国会の議事録検索などで、自分の発言がネット上で検索されるようになっていることを承知の上で、「質問という体裁をとった自己顕示」のSpamerに見えますな(笑)

「ブログ」のイントネーションがおかしい

テレビやラジオで「ブログ」と言う時のイントネーションが最近気になる。

WebLogの省略からブログになったのが、今ではそれは忘れられて?
一人歩きした「ブログ」。

そういや、「クラブ」と「クラブ」のイントネーションも同じように気になったっけ。


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